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なぜ私は、個人表彰されなかったのだろうか?・・・その1

個人表彰

販売第一課の私の部下が3人いた。2人は高卒、1人は大卒だった。
その中から、最初に個人表彰されたのは高卒のUMEGAKI君だった。
彼は私の担当するY社の強豪の地方元卸問屋 i 商店を担当して、同行販売や二次店活動を展開し、元卸 I 商店の市場拡大の時期とも重なって、好成績をあげた功績により、年に1人の個人表彰者となった。

彼は真面目で仕事熱心だった。だから元卸 I 商店の社長を始め仕入担当のO専務、セールスを始め社内の皆に好かれていた。また二次店の社長からの支持も大きかった。
正に私がY社で行なったやり方そのまま実行したのである。

翌年は同じ課のKOSAKA君(高卒)が表彰された。
彼は四国、北陸地方を担当して、得意先の信頼を得て好成績をあげたことが要因であった。普段はおとなしくて目立たないが、見えないところで力を発揮する努力家であった。そうフランク永井を小柄にしたような感じだった。
私の部下から2年連続で個人表彰者が出たことは、M社始まって以来の快挙で、実に喜ばしい限りだった。

しかし、M社の営業部は、私がセールスになってから、先輩たちを刺激し活性化要因を作ってきた。毎月、目を見張る営業実績をあげる私の姿を見て刺激されない方がおかしい。
また新しい独自戦略を実行し、遂には二次店の囲い込みの基盤をつくった功績は評価されなかったのだろうか?

実はそうではない、毎年のように個人表彰にノミネートされていたことを後になってO営業部長から聞かされたのです。

私の実家は明治38年創業の中村手帳製造所と言う初めて別製手帳を全国に普及させた創業70年(昭和44年時点)の老舗であった。兄が二代目社長となり、私は三男。私に帰って来いとのことでM社を退職するお願いを1年前から営業部長に相談していた。その時に私を引き止めるために、君だったら後15年もすれば取締役営業部長に必ず成れると言われた。当時の営業部長の役員報酬が50万円だった。ちなみに私の給料は4万円前後だったと思う。
その時にこの個人表彰をしなかった理由を聞かされたのです。

最初のノミネートは平セールスの時で、毎年売上記録を飛躍的に更新していた頃です。
そして2回目は、主任となり管理者として、個人表彰者2人を育て、売上成績を伸ばし会社に多大に貢献した功績です。その頃になると本社売上を左右するくらいの役割りを担っていた。

【参考】M社「二十年史」より売上推移です。
私の在任期間(37.3〜44.3)の売上の推移である。

◆ブログ:売上高の推移(私の在任期間).

この売上の推移は、Y社長始め、全社員の一致団結の力であると思いますが、会社と言うものは、例え数人でも頑張り屋さんがいさえすれば、流れを変えていけるものだと実感した。

あの大阪戦争で散々な目にあった時、先輩たちはどんな働きをしていたかである。一部の上司もそうである。
それをつぶさに見てきたから分かるのです。
もし、私が入社していなければ、M社の発展も数年遅れたかも知れないだろう。
Y社長は、特に私を大事にしてくださったのは、そのことを気づいておられたのかも知れない。
私が変化をもたらしたことを・・・・・。

この2回の個人表彰のノミネートに意を唱えたのは、
はからずも営業部長だったのです。
その訳は、私達の入社した時から始まる。




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